東北旅行2023年夏5日目~気仙沼編~
⚠️この記事には東日本大震災に関する記述や写真が登場します。ご注意ください。
旅の記録
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5日目
気仙沼へ
7時くらいに目が覚めた。今日は宮城県最北東にある気仙沼で東日本大震災の遺構を展示している伝承館に向かう予定。
コンビニ飯で朝食をとりながら気仙沼までの電車の時間を探した。すると、一関から気仙沼までの大船渡線の電車は2時間に1本くらいしかなく、次の電車は10時過ぎのものだった。仕方がないのでチェックアウトの10時ギリギリまで宿でダラダラし、駅へ向かった。
気仙沼行きの電車は2両編成のワンマンカー。案の定Suicaは使えないようだった。
気仙沼駅着
1時間半ほど森と田舎の線路を走ると気仙沼駅に着いた。駅前は全く栄えておらず、海側の方にお店などが多いようだった。
まずは駅前の観光案内所でタクシー割引券付きの伝承館入館券を購入した。タクシーの500円割引が往復用の2枚ついて600円。かなりお得だ。
その後、BRTと呼ばれるバスに乗って伝承館の最寄りである陸前階上に向かう。階上は「はしかみ」と読む。
BRTは、震災で気仙沼の鉄道である気仙沼線と大船渡線は大きな被害を受け、そんな中で人の輸送を実現するために開始されたサービスだ。ちなみにBus Rapid Transitの略。
気仙沼では震災前に鉄道のあったところにBRTの専用道路を敷いて移動が効率化されており、バス停も駅のホームのようになっていて新しい移動インフラになっているようだった。Suicaが使えるのも嬉しかった。
バスに揺られながら気仙沼市内を眺める。駅付近は古い建物が多いが津波到達付近までくると、建物がまばらになってくるし新しい建物が多くなってくる。古めの建物も残ってはいたが、津波被害の遺構として保存されているものだった。
津波の破壊力と新しい生活を始めている気仙沼の人たちの力強さに鳥肌が立ったし、姿勢を正さずにはいられなかった。
新しい建物、新しい生活といっても震災からもう12年も経っているのか。
地震があったとき自分はまだ広島に住んでいて中学3年の卒業後の春休みだった。父の手伝いが早めに終わり、その帰りの車のラジオでとんでもないことが起こっていると当時ながら感じた。そのときの感覚や状況は今でもはっきり覚えている。
タクシーにて
陸前階上へはBRTで20分ほどで到着した。気仙沼駅の観光案内所でタクシー割引券を受け取った際に、陸前階上駅にはタクシー乗り場がないため事前にタクシーの手配をしておいた方が良いと言われていた。
陸前階上駅では手配しておいたタクシーがすでに待っていた。行きも帰りもタクシーの運転手さんは同じだった。東北を旅行していること、気仙沼には初めて来たことを伝えると震災時の話をしてくださった。運転手さんは地震があった日は気仙沼から遠い場所まで乗客を送っていて、帰ったら何もなくなっていたと語った。タクシー会社の一人の同僚が津波で亡くなったとのことで、遺体が見つかったのは地震から7ヶ月後の10月。気仙沼湾内にある大島ですでに白骨化していたとのことだった。
伝承館
陸前階上駅から伝承館へはタクシーで5分ほどで着いた。料金は860円、これに500円割引券を利用して360円。
伝承館に近くになってすぐに目に入るのが向洋高校旧校舎南館。当時のまま残っており、タクシーから見えたときには目頭が熱くなってしまった。
伝承館ではまず震災当時の映像シアターがあり、震災時の写真展示、旧校舎、ドキュメンタリー映像といった展示を順に回っていく。映像シアターで初めて知ったが(もしくは記憶が埋もれてしまっていたのかもしれないが)、震災時は津波被害もひどかったがその後の火災もひどかったようで完全に消化されるまでに2週間もかかったとのことだった。加えて季節は雪の降るような3月、被災者の過酷さを思うと胸がつまる。
伝承館内の展示は基本的に撮影禁止だが、旧校舎の遺構だけは撮影が許可されていたのでいくつか載せておく。
南校舎の1階の部屋。
南校舎2階。この高さにまで車が流されてきている。
散乱した本たち。
屋上からの景色。すぐそこが海で、校舎内は磯の香りがする。校舎前にはパークゴルフ場ができており、人間のしぶとさを感じる。
屋根が流されてしまっている運動場。
引き潮の通り道となった校舎の外には車が積み重なっている。
伝承館には多くの人が訪れているようで、展示の最後には訪問者たちの感想が書かれた付箋が壁一面に貼られていた。また、ちょうどこの日は高校生の一団が伝承館を訪れており、震災学習の場としても利用されているらしかった。
岩井崎
伝承館を出たのは14時過ぎ。お腹が空いていたが伝承館付近にお店は一つもなく、少し歩いたところにある食事処も14時にはしまっていた。仕方がないので空腹は我慢し、近くの海岸を散策してみることにした。
海岸は歩いて10分ほどで着いた。すでに立派な数mの海岸堤防が築かれていた。タクシー運転手の話では以前は胸くらいの高さの堤防で海まで見えたが、今では何も見えなくなってしまったと。海岸の堤防もしっかり築かれていたが、街中を見ていると河口に近い河岸も護岸工事がされていて印象的だった。
また、海岸の周りではたくさんの松の植林が進められており、次の津波では被害を最小限にするための取り組みがどんどん進められているようだった。
海岸の先は岩井崎と呼ばれる綺麗な公園になっている。
左手の銅像が第9代横綱秀の山雷五郎像。努力の人で38歳で横綱に上り詰め、戦績は112勝21敗。その人生を表すかのように震災時の津波にも耐え、立ったまま残っていたという。
右にあるのが龍の松。この松も津波を乗り越えた松であり、秀の山雷五郎像と並んで復興のシンボルになっている。
確かに龍に見える気もする。
岩井崎の先には潮吹き岩がある。写真ではイマイチだが、カメラを向けていないときはすごい高さまで潮を吹き上げていて圧巻だった。
地元の居酒屋で夕食
宿は気仙沼駅から歩いて15分ほどにあるところをとった。伝承館から戻り、宿に着いたのは16時過ぎだった。お昼を食べていなかったので17時過ぎには夕食を探しに出かけた。
何軒か断られ行き着いたのが気仙沼駅近くの居酒屋。入ると大将と女将さん、カウンターに年配の常連さん2人がいて楽しげに話しており、その常連さんの間の席に案内された。
気まずいなあと思いながら席に着いたが、どの方も人の良い方々でありいろんな話をした。常連さんの一人には名物の気仙沼ホルモンとお酒を奢っていただいた。話は自然と震災の内容となった。
家が流されたこと、子どもが生まれたばかりのときに地震が起こり粉ミルクが全く手に入らなかったこと、各地の親類や仲間たちがたくさんの粉ミルクを届けてくれたこと、震災の翌年と翌々年に母と兄が亡くなったこと、気仙沼の建設業は落ち目で会社を畳んだり自殺者が出るほどだったが今では盛り返したこと、震災によって仕事や生き方が変わったこと。
どの話も生々しく胸にくるもので、涙を浮かべながら聞いていたら笑われてしまった。
特に印象的だったのは震災によって暮らしも変わったが、精神構造も大きく変わっていたことだった。震災でたくさんのものをもらってきたので今は返すということを強く意識していたり、多くの様々なことに感謝をするようになったと。例えば常連の一人は大工さんで仕事でいろんな場所に行くことがあるが、以前はヒッチハイクの人を見ていても乗せなかったが今では方向が違っていても乗せて行っているとのことだった。
お酒が進み酔いがかなり回っていたが、帰りに湾内に寄って海を見てみたかった。それを伝えると女将さんが湾内まで車で送ってくださった。気仙沼の人々の温かさに触れた夜だった。
海の近くには綺麗な建物ができていて整備されていた。とても静かな海だったが、この一帯も津波の被害エリアだったことを考えると自然の持つ豹変さに怖さを感じた。
総括
震災から12年経ってようやく被災地を訪れることができた。そこではもう被災地とは呼べないほどに新しい生活が始まっていた。
昨日平泉を訪れていたこともあって世の諸行無常を強く感じたが、それとともに人間のしぶとさ・力強さも感じた。これがあるためにどんなことがあっても人間は長い歴史を紡いで来れたんだと感じた。
明日は日本三景の一つ松島に向かう。宿も良いところをとっているので楽しみだ。